チェンマイにて筆者
お寒さ
きびしき折、皆々樣には
御機嫌およろしくゐらせられませうか、
お伺ひ申し上げます。
當方お陰樣にて
恙なく日を送つて居ります。
去る二月十五日から二月二十四日迄、
“北方の薔薇”こと泰國のチエンマイへと旅に出ました。
十日間と云ふ短い旅でしたが、
生涯忘れることのできない
樂しい想ひ出になりました。
さて、旅の記憶が鮮明な内に
チエンマイ旅行記を認めたく存じます。
少ゝ長くなりさうですが
旅の空氣を感じて頂ければ幸いです。
★二月十五日(金) 出發の日
(十五日午後四時半、阡葉縣某所ヨリ旅客機ニテ出發
途中臺北ニテ一泊、十六日午前十一時四十五分
御地着の豫定)
大正時代の牛革トランクに牛革手提げ丸型、
白レエスの舶來製日傘、銀座Vogueのお釜帽、
帽子と同じ臙脂色の洋裝(これはやや新しく1940年代製)
黒革靴、肌色に後部黒縦線入りスタッキング、レヱスの黒手袋
蛇革の金口。これらを身に付けて颯爽と飛行場へと向かひました。
氣分はもう南國です。
前日は、只管荷作りをして居りました。
何しろ全晝夜の裝ひを考へなくてはなりませんもの。
また、彼地でモダンな裝ひを探し出すのも樂しみの一つです。
荷作りを終えて鐵道に乘り、驛舍から乘り合いバスで
千葉縣某所へと向かひました。
はたして、飛行場にて滯在先ホテルの連絡先を
全く忘れて來たことに氣が付きました。
慌てて空港のコンピユータアで連絡先を調べ
小さな紙に書き寫しました。ヤレヤレ!
(香水の話)
久し振りに、免税で愛用の pleasures intenseを購入。
しかし最近は、Worthの
Je Reviens(1932年發賣)ばかり使って居り
そちらの方が馴染んでしまつた為、今後どうしようか迷つてをります。
pleasures intenseは非常に新しい香水で、
“モダンガール”の愛好者には、Je Reviensの方が
絶對にふさわしいのでありますが、、、。
機内では「北ウイング」など、1980年代のヒツト曲等を聽いて
みました。邊りも暗くなり、桃園國際航空站へと到着。
臺北市内迄は、乘り合いバスで約一時間程かかります。
明日朝六時には空港に居なくてはなりません。
さて、どうしやうかと考へながら、
空港内をうろうろと歩き囘りました。
夕餉には、航空站内にて臺灣料理を頂きました。
歩いて居るとなかなか立派な
安樂椅子を幾つか見つけたので、やや寒かつたのですが
今夜は此処で過ごすことに決めました。
既に南国氣分で薄手のドレスを纏つていた私は
エイヤツと、さつき機内で何となく貰つた
臺灣の新聞紙をたくさん体に卷き付けました。
それで安心したのか、ぐつすりと眠つてしまいました。
周りの旅行者達は大きな旅行鞄を傍らに置いて休んでいますが
私の荷物は臺北で受け取る必要がなく、
そのままチエンマイ迄運ばれて行ったので
殆ど何も持たない状態でした。
ドレスにただの新聞紙を卷いて寢ていた私は、
一體どんな人間なのであらうか、
此処では誰も知る由もありません。
★★二月十六日(土) 御地着
早朝、臺北の空港で独り目が覺めた私は
一瞬自分が何處に居るのか分らなくなり
ボーツと天井を見つめてをりました。
足元には、臺灣の新聞紙が散亂してをり
それらを拾い集めては、またもや体に巻いてもう一眠り。
出發の時間になつたので、新聞紙を古紙囘收箱へと投入。
空港内で、チエンマイ行きの飛行機を探しても見つからず
おかしいと思つて尋ねてみたら
「タアミナルが違います。ここからは遠いですよ。」と英語で云われたので、
慌てて別のタアミナルへ向かいました。
その後やつとチエンマイ行きの飛行機に乘り込み
臺北からチエンマイへ向けて出發したのであります。
チエンマイ到着。旅客機から一歩足を踏み出すと
一瞬、生暖かい南国の空氣が流れ込み
到着の實感が湧きました。
遂に チエンマイへ 着 い た ー !!
兩替をしてTAXIで宿へ直行しようと思へど、
滯在先ホテルの連絡先を書いた紙が見つかりません。
昨日書いたばかりなのに、どこかで紛失したようです。
ホテルの綴りは憶えて居らず、空港にある
コンピユータアを教えて貰うも、何故か全て故障中。
さてどうしたものか、、、と考へました。
やや長い時間、空港でウロウロと歩きました。
さういえば、念の為名古屋の實家に
滯在先ホテルの電話番號を傳えていたのですが、
それを国際電話で聞けば良い!と思い
國際自動式電話のカアドを買いました。
牛革トランクに牛革手提げ丸型を持って歩き回っている
日夲人を見て不思議に思つたのか、空港の職員は
至極丁寧に電話の掛け方まで教えて呉れました。
受話器を上げたその刹那。
「カヨさん!!」 と、耳を疑うやうな聲がしました。
「・・・!?」
何故異国の地で名前を!と
驚いて見上げお話を伺ふと、その方は知人の
H.Eさんであることがわかりました。
直接お話したことはまだなかつたのですが、
Iさんが“ビストロサンジャック”で公演された際に
お見かけしたことがありました。私はいつでも
モガの格好をして居るので、憶えていてくれた樣なのでした。
これから滯在するホテルから、ついさつき出て
空港へ來たのだと云ふことでした。
同じホテルに入れ違いで滞在される云ふことは聞いていたのですが、
空港でお會い出來るなんて
夲當に嬉しかつたです。
無事に滯在先ホテルの連絡先を教えて頂き
(この時H.Eさんが天使に見えました、、、。)TAXIまで
見送つて頂きまして、滯在先のホテルへと向かうことが出來ました。
H.Eさん、ほんたうにありがたうございました。
初めてのチエンマイの町を車窓から眺めながら
ホテルへ到着しました。
Iさん、S子さん、
A君、Mちやん、そしてタイの日本語教師である
日夲人の靑年Tさんが出迎へてくれました。
Tさんは皆さんがH.Eさんを見送っていた時に
たまたまホテルの前を通りかかつたといふことです。
彼は、Iさんのすごろく旅行の本も読んでいたと云うことです。
それに加えてミクシィで管理人をさせて頂いている“すごろく旅行をしよう”の
コミュニティにも參加して下さつていたと云ふことでした。
(今はミクシィに登録されていないとのことです。)
歩いて大衆食堂へ行き、タイ料理を頂きました。
その後、初めて“タイ式マツサージ”を受けることに、、、。
皆で違つたことをしやうと云ふ話になり、私と
A君は別室で香草・薬草を使つたマツサージを
受けることに成りました。
暗ひ部屋へ。唐突に
「二人の關係は?」と英語で聞かれました。
「友人です。」と答へると
「へえ。」と女性マッサージ師。
続いて「二人共、上着を全部お脱ぎなさい!!」と、、、。
イヤ友達でもそれはマズイだらう、と云ふことで
私は別室で油を使ったマッサージを
二時間受けることにしました。(私はわりと動揺しましたが、
A君は、冷静沈着に上着を脱いでいました。
その後彼の肝の据わった所を何度も目撃することに
なりました。)
タイ式は足が中心で太腿はややくすぐつたかつたのですが
非常に身體が輕くなりました。マッサージを受けるだけでも
チエンマイへ來る價値があるヨと云はれていたのですが
それは夲當にさうなのだな、と思いました。
その後、輕くなつた身體で夜市へ行きました。
異國の夜市は、わくわくするものです。
A君が蟻の卵入りの玉子燒きを
買つていて、一口だけ頂きました。
何だか酸つぱいやうな不思議な味でした。
骨董屋では黒電話(日夲の3號式黒電話にも少し似ていた。)
を見ましたが、いつ何處の國で使われていたものなのか
全くわからず、やや高価だったので購入はしませんでしたが
大變氣になりました。
骨董屋の軒先で、レコードがかかつて居たのですが
店主が氣を利かして日夲語の「支那の夜」を
かけてくれました。チエンマイの夜市でかかる「支那の夜」に
思わず踊り出しさうになりました
(また香水の話)
Je Reviensの瓶が落下して
粉々になつてしまいました。
部屋中がJe Reviensの香りで一杯になり
暫し呆然。
★★★二月十七日(日)
けふは旅行代理店による“エコトレツキング”に
參加致しました。觀光化されていない、環境に配慮した
日帰り旅行なのださうです。
參加者は別ホテル滯在中のKさん
Iさん、Mちゃん、そして私です。
時計を持つて來られず
氣合だけで何とか早朝に起きることが出來ました。
まだ早ひだらうと思つて、ゆつくり着替えてから下へ行くと
既に添乘員の方が待つていました。
慌ててMちゃんの部屋を叩いても
返事はなく、Iさんの部屋へ行くと髭剃りの途中で(キャ!)、
一寸慌てました。
約束は八時半だと聞いていたのですが
添乘員曰く八時で、再びMちゃんを起こしに行き
何とか全員で車に乘り込みました。
その後、他のホテル等も囘つて色ゝなお客さん
(歐米人多し)を乘せ、Kさんのホテルにも寄り
車が一杯になりました。
割と樂な感じの豫定だと聞いていたので
(優雅に象に乘つたり、筏でゆつくり川下りをしたり・・・、
フフフ。)
昭和初期當時の洋裝(流行の水玉柄)に
ストローハツトで向かいました。
郊外まで車で向かつた後、山嶽民族の村を訪れるといふことで
車から降りて山道を歩きました。
突然、目の前に怖さうな大きな吊り橋が。
一度に三人しか渡れないと云ふことで、
搖れも激しく掴まる所もやや不安定で、高所が苦手な私は
非常に怖かつたです。
Iさん、Mちゃんに撮影をされながら「大丈夫!」
と仰つていましたが、靑い顔をしていらつしやいました。
ひええ。
その後全員無事に吊り橋を渡り、暫く山道を歩きました。
風景としては、鎌倉の山とあんまり變わらないなあと
Kさんと話していました。
その後 急にバナナの木がたくさん目の前に現われて
やつぱり南国だ!と云ふ話に成りました。
それから村へ到着。鷄と雛がそこいら邊で
ピヨピヨチヨコチヨコ歩き囘つていました。
資料館になつてゐる小屋を覗いたりしました。
のどかなのどかな場所でした。
綺麗な布を織つてゐる所を見學させて貰い、
その邊りで休んだ後は、元來た道を歩いてまた戻り(!)、
例の吊り橋を逆戻りしました。
それから車で移動した後は象に乘ることになりました。
前の象にIさんとMちゃん、後ろの象にKさんと
私が乗りました。
白ひレエスの日傘に白い手袋を嵌めて
優雅に象に乘らうと決めてをりましたので
何が起こらうと日傘だけは手離しませんでした。
日傘をさす時はその角度が最重要で
首に近付け過ぎては美しくありません。
少し首から離してやや傘夲體を傾ける必要があります。
しかしながら象が山道を下る時は相當な重力がかかり
滑り落ちさうになりますので(ベルトなど何も、ない。)
左手で背もたれをしつかり持つて體重を支え
右手は角度に注意しながら日傘を持ち
なるべく涼しい顔でいるやうに心懸けました。
淺草はなやしき遊園地の木製ジエツトコヲスタアよりも
大變でした。 かけがえのない經驗だつたと
と思ひましたよ。
象は山道を登つたり下つたり川を渡つたり
途中で色ゝなものを食べたりしていました。頭の毛は
柔らかい針金のやうな感触で表面のざらついた感ぢが
妙に愛しくて忘れられません。
隣のKさんは、村でも象の上でも(!)
移動式電話で日夲人と見事に商談をしていらつしやいまして
その光景はまるで「モヲレツ會社員 泰国ヲ行ク!」と云ふ名の
活動寫眞のやうな、、、素晴らしい一コマを
体現されていらつしゃいました。
前の象では、象使ヒに薦められ
Mちゃんがいつの間にか象の背中に乘つてをり、
大したものだなアと思いました。象使いの不思議な唄が
辺りにコダマしていました、、、。
象乘りの後はお晝ご飯、その後は
また別の村へと參りました。
(伊太利亞から來たといふ夫婦と談笑。“ニヨツキ”が
好きだと云つたら喜んでくれました。)
澤山の葉に覆われた屋根を持つ高床式住居がありました。
その邊りで自由行動。一人でふらふら歩いていると
何處からか大勢の男達の歌聲が聞こえて來ました。
開放された集會場の樣なところがあつて
とにかくあがつて!!と皆さんに手招きをされ、
歡迎のお酒を頂きました。
以前バリ島で飮んだ“Arak”にも似た味で
美味しかつたです。
その集落で暫く過ごした後、瀧見物をして一休み。
Iさんは、氣持ち良さそうに瀧の前でゴロンと
横になられていましたが、何匹かの犬にペロペロと
手を舐められていらつしゃいました、、、。(何故だ?)
Mちゃんは、あつと云ふ間に瀧の裏側まで
行つてしまつたので、下からヒヤヒヤ
しながら眺めてをりました。
亞米利加人達は突然水着に着替えて記念
撮影をしていました。他の參加者の方から英語で
「あなたは洋裝だけれど筏に乘つて大丈夫かしら・・・?」と
聞かれました。少しなら大丈夫よ、と答へましたが
あまりにも心配さうな顔をするので不思議に思ひました。
まさか、、、。
瀧を後にして、次は筏下りの場所まで行きました。添乗員さん曰く、
「筏には、何も持つていかない方がいい。靴ぢぁない方がいいよ。」と
勸めてくれたのでとりあへず何も持たずに參加することに
しました。
筏は足の幅位の丸太八夲で出來ていて
結構浸水しさうな感ぢでした。
これは、氣をつけないと水に濡れるなアと思ひつつ
乘り込みました。何しろ洋服で乘つていたのであります。
先頭にオールを持つた船頭のおぢさん
Mちゃん、私、Iさんの順番で筏に座り
Kさんは後ろでオールを持つことになり
一緒に漕ぐことになりました。
暫く進むと樂しげな船頭さんがこちらを見てニヤリと笑いました。
(何だ!?)
・・・と思うや、オールを水面に向かつて身體の横邊りで
「バツシヤーン」と叩き、その技があまりにも上手いので全身ずぶ濡れに。
あんまり樂しさうにやるのでこちらも負けじと船頭に水をかけ
水掛け合戰になりました。
そして遂に、Iさんを除く三人が川にドブンと落ち
船頭さんを筏から落としたりして、遊んでいました。
筏から落ちた時、スカアトだつた私は後ろの方ゝに
パン○ー丸見えと云ふ、大變なことに。(そんな馬鹿な。)
流れが急になると、さすがに遊びはおしまいになり船頭も
きりつとした顔になりました。
Mちゃんが急に筏から落ちてしまい、皆が慌てましたが
怪我もなく良かつたです。
色ゝあつた筏でしたが、貴重な經驗だつたと思います。
しかし靴は脱いだ方がいい、と
云つていたけれど最初から水着に着替えて!と云はないのは
どう云ふことだ。着替えもなく、このまま車にも乘れないので
モダンガールとしては至極ありえない
「縞々赤Tシヤツと濃い桃色の半ずぼん」を買い
着替えてから帰路につきました。“エコトレツキング”おしまい。
(恥ずかしいので、その上に頭から布を被つて居りました。)
それぞれの部屋に戻つて、
いきなり寢込んでしまつたIさんを
心配しつつもMちゃんと食事に出掛けました。
すると、A君とS子さんに夜市で偶然會えたので
一緒にイエローカレーが美味しい店で、食事をしました。
MちゃんはIさんに食糧を買ひ先に戻つてゆきました。
此處のイエローカレーは、今まで食べたことのある
イエローカレーの中で一等美味しかつたです。
夜市では、蝶の標夲など購入。
★★★★二月十八日(月)
けふはひとりでチエンマイ國立博物館へ參りました。
チエンマイの町中を走つている赤い乘り合いバス
「テンソウ」に乘つて目的地へと向かいました。
博物館から少し歩いた所にあるレストランで食事を
したのですが、日本のモガが珍しいのか
(日本でも珍しいかもしれませんが)
兎に角、女給らはず~~~つと笑顔で此方を見ていました。
チエンマイ國立博物館は泰北部の古代からの歴史
ランナータイ王國、佛像の展示など興味深い内容でした。
1960年代に訪れた天皇皇后兩陛下の黒白寫眞の展示がありました。
それから二枚の寫眞を同時に見る立體寫眞の展示。
これは、明治・大正・昭和初期に流行つたものですが
當時の物がチエンマイで見られたことに驚きました。
隣に王族の洋裝が飾られていたので
當時の王族のコレクシヨンだつたのでせうか。
最新式の博物館と云ふよりは、ちよつと前の博物館と云ふ感じがして
樂しめました。氣候もよく人影もまばらで
安樂椅子にて少々まどろんでしまいました。
その後、博物館の方に美術館は何處かと尋ね
今度は赤テンソウでチエンマイの美術館へと向かいました。
しかし、折角美術館に着いたものの休み。
その邊をうろついて居りましたら隣に美術學校を發見しました。
私は美術系大學の出身なので、何となく懷かしいやうな氣分に
なり、校舍を覗き見。
美術學校の前には、發砲スチロールで
「M A D」と作られた大きな立體物がありました。
「M0GA」と「MAD」で記念撮影會をしやうと思い、カメラを適當に配置して
地べたに座り込みカメラを自動撮影にして一人撮影會を行いました。
誰も居ないからいいか、旅の恥は掻き捨てと大きな顔で
寫眞を撮り撮影が終わつた途端
美術學校の上の方から可愛い女學生が
トントントンと階段を下りてやつて來ました。
女學生は英語で「寫眞、撮つていましたね。上から見ていました!」と云ふので
やや恥ずかしく思いましたが、その後別の學生さんが來たので
その女學生と一緒に「M A D」の前で寫眞を撮ることにしました。
女學生はアドレスを教へてくれたので寫眞が出來たら
送る約束をしました。(ちなみにデヂタルではなく、黒白フイルムであります。)
思ひがけずタイの女學生と仲良くなれて嬉しかつたです。
今度も赤テンソウでデパートメントストアーへと向かいました。
色々な物があつて面白かつたのですが
特に良かつたのは、モダンな洋裝を見つけられたことです。
深緑のローウエストのドレス(綿)で、胸元にビーズが
あしらわれ、全體にキラキラ光る絲が織り込んでありました。
この洋服を作つた方は、絶對に昔の洋裝からヒントを得た
に違ひありません。良ひ買い物が出來ました。
デパートメントストアーの地下で足マッサージをして貰いました。
昨日の疲れも吹き飛び、心地良い時間を過ごしました。
夕方ホテルへ戻ると、Iさんは熱も下がり囘復されたと
聞きました。嗚呼、一安心。丁度同じ場所でマツサージを受けられていたのだとか。
夜はIさんの部屋で、麦酒やメコン・ウヰスキーを飲みながら
「Sちゃん」の到着を待ちました。(メモ・お酒は程ゝに。)
深夜、日夲からSちゃんが到着しました。
★★★★★二月十九日(火)
けふは、計八名で“チエンマイ徒歩すごろく旅行”を決行致しました。
すごろく旅行創始者のIさんと初めて
「すごろく旅行」をご一緒出來たのですから、感無量であります。
何しろ、私自身は10囘以上国内ですごろく旅行を
していたので、夲當に嬉しい機會でした。
・・・無事にすごろく旅行が終了して、
二階に或る掘り炬燵のやうになつている店
(正し下から見ると足がブラブラしている樣に見える。
面白いけれど、滑つたらかなり危ない。)へ行き
魚料理や美味しい飮み物をしこたま頂きました。
食事の最中にチエンマイヘ來て初めての激しい
俄か雨を經驗しました。異国の雨音が心地良イ宵でした。
ホテルに戻つた後も、皆でIさんの部屋にヨイヨイ集まつて
麦酒を飮んだりお話をしたり樂しく過ごさせて頂きました。
大人の修學旅行のやうな感ぢでせうか。
お酒を呑むと、妙に饒舌になつてしまい
色ゝなお話を眞劍にしてしまつたやうです。
後で想ひ返してみても、恥ずかしいつたらありやしない。
何故なのか未だに原因がわかりませんが
この頃Iさんから、もの凄くいい香りがするやうになり
皆さん驚いていました。一體なんだつたのだらう、、、。
★★★★★★二月二十日(水)
けふは、S子さんとA君と共に
「Tesco」へ向かいました。何故、チェーン展開の
店が苦手な私がわざわざスーパーマーケットへ
出掛けたかと云ふと、約十年前英国で住み込みで
働いて居た時に小さな「Tesco」が近所にあって
よく通っていたのが懐かしかったからであります。
それからタイ語で書かれた“DROSTE COCOA”の缶を
探していました。Tescoに到着して、あまりの
大きさに驚きました。靴屋から始まって、CD、日常雑貨、
食料品などを見て周った後は、二階で食事をしました。
三時間は居たかと思います。色々なものを見るのは
樂しかつたのですが、元々スーパーマーケットがあまり
得意でないので、宿に戻った途端バタンとベッドに倒れこみ
小一時間ほど完全に眠りこけてしまいました。
その後、ハタと起き上がり寺院にてマッサージを受けました。
寺院のマッサージは一寸痛くて
“ソフト・ミディアム・ストロング?”と聞かれるので
“・・・ソ・ソフト!”と云ふと
“ミディアム”ねと云われ
“ソフト・ソフト”(カヨ)
“ミディアム・ミディアム””(マッサージ師)
“ソフト・ソフト!”(カヨ)
“ミディアム・ミディアム!””(マッサージ師)
と云う感じ進められました。
隣を見ると、A君は全然痛がっていない、、、。
さすがだなアと思って後で聞いたら、夲當は痛かったらしい。
さすがだ、、、。
一時間のマツサアジの後、慌てて
トゥクトゥクで待ち合わせ場所へ向かいました。
トゥクトゥクは、三輪自動車のタクシーです。
やや遲れてしまいましたが、Kさん、
タイで日夲語教師をされてゐる日夲女性、そしてその方の
婚約者(タイ人の方)とお會いしました。
チエンマイで初めての伊太利亞人による夲場石釜ピザのお店ださうで、
美味しいピザとKさんにワインを御馳走になりました。
レストランで花売りから赤い薔薇の花束を入手。樂しい時間を過ごしました。
Kさんの先に滯在先ホテルまで、その女性と婚約者が送つて
くれると云うので、てつきりトウクトウクか何かに一緒に乘るのかしらと
思つたらオートバイの後ろに乘ることになりました。
三人乘りには驚きましたが、かなりゆつくり走つてくれたので
そんなに怖いこともなく戻ることが出來ました。アジアで
オートバイに乗るのはこんな氣分かしら、と
生暖かい風を受けながらチエンマイの公道を走つてゆきました。
三人乘りのことばかり考へていたけれど、
よく考へてみたら完全な飮酒運轉だつたなアと
後になつて氣が付きました。日夲では、とても考へられないことだけれど、、、。
とにかく二人に禮を云ひ、別れました。
皆は、まだ夕食から戻つていないやうだつたので
先に一人で休んでいました。
★★★★★★★二月二十一日(木)
皆さんと遅めの朝食をとった後、
Sちゃんと二人で市場まで赤テンソウで向かい
市場で別れてから町の散策をしました。
トゥクトゥクでタイ国鐵チエンマイ驛まで
行きました。驛舎の近くには蒸気機関車の展示が!
地方の終着驛と云ふ感ぢでなかなか風情がありました。
バンコク行きの汽車が止っていて
大きな鞄を持った旅行者がたくさん歩いていました。
バンコク迄は、約十一時間の旅ださうです。
マレー鐵道でシンガポールへ行った時のことを想い出します。
いつか“Raffles Hotel”(明治二十年開業)に泊まりたいなア。
その後郵便局へ出掛けて切手を買おうと思いましたが
祝日の爲、休みでした。
再度市場へ戻り山嶽民族の衣裝や骨董屋
佛具店や古夲屋などを見て囘りました。
何處へ行つても、この樣な店を見つけ出す
嗅覺だけは日頃から鍛えてゐるので、案内書などは
一切持たないで古いものをたくさん見て歩くことが
出來ましたヨ。
市場では、西瓜、柘榴、バナナ、蓮霧(レンブ。別名Rose apple)等の
果物を澤山おみやげに買ひ、すぐに赤テンソウでホテルへと
戻りました。蓮霧は、梨に似たやうな味で美味しゆうございました。
夜は202號室で、Sちゃん祕藏の映像と画像の鑑賞會をしました。
皆さん色ゝな食べ物や飮み物を持ち寄つてくれたのですが
S子さんがお皿一杯のタイ料理を作つて來てくれたのが
特に嬉しかつたです。
殆どIさんが映つているので、解説を
して下さいました。特に地方でしか放映されなかつた
番組の映像などは、大變貴重でした。
見たことのない映像もあつて、とても面白かつたです。
「どこだ?思ひ出せない!?」
と云うのも一寸あつたやうです!
明日は、遂にチエンマイ公演であります。
もうすぐこの旅もおしまいなのです。
あまり遲くならない内に、良い香りのする(!)
Iさんの部屋を後にしました。
★★★★★★★★二月二十二日(金)
夲日はIさんのチエンマイ公演の日であります。
皆さんで會場へ向かう前に近くのレストラン迄歩き
(獨特な味のハムサンドウヰツチが美味しい)食事をしました。
ホテルへ戻るKさんが“すごろく旅行”の時に購入した
リコーダーを吹きながら待っていてくれました。
な、何て素敵なおぢさまなのでせう!
けふは、タイで購入したモガ的裝ひに、
同じくタイで入手した絹製のカチユーシヤと
木製のバックルを合せました。
私なりのタイ風モガの裝ひであります。
持參した約五メヱトルの淡水眞珠の首飾りを合せました。
左腕にはいつもの象牙の腕輪三本。
チエンマイの某高級住宅地のKさんの豪邸が會場です。ホテルから
赤テンソウで向かいました。高級住宅地なので、住宅地の門で
一度車が止まり、門番が確認をしていました。
庭の南國植物が美しい、素晴らしい邸宅でした。リハーサルの合間に
Iさんに御願いをして特別にモボ・モガ撮影會をさせて頂きました。
昭和初期頃の山高帽、セルロイドの眼鏡、チヤツプリン髭(舞臺用)、
衿無未使用白シヤツ(先日閉店したS縣S市の洋裝店にて
大正生まれのおぢいさんから頂いた品。)を持參し、それらに着替えて
頂き、皆に撮影をお願いしました。
その、Iさんの格好良さと云つたら・・・もうなんていふか
夲當に當時の方では!?と思ふやうな感ぢでありました。
正直に云いまして、モガ・モボに關してはかなり嚴しい目で
見ているのですが、完全に脱帽です!!
いつか完全なる當時の裝ひで活動寫眞の弁士をやつて頂けたら
もの凄く格好いいだらうなアと夢想しました。
(恰幅が良いので、和裝も相當似合うだらうなア。)
チェンマイで夢を叶えて下さつたIさんと皆さんに感謝であります。
さて、徐ゝに日暮れも近付きましてお客さんもたくさんいらつしやいました。
豫約の方など五十人近くが集まつていたやうです。
そして、Iさんのライヴが始まりました。
A君もギター等の
演奏をして、Mさんも一部コーラスで参加しました。
Iさんのライヴは、昨年だけでも十囘以上は出掛けて
いるのですが、何度同じ曲を聽かうと同じ樣に聽こえたことがないので
飽きることがありません。
過去でも未來でもなく、この時間とこの場所が續いたらいいのになと
思へるほど、夲當に素晴らしかつたです。
この時の氣持ちはとても言葉では云ひ表せません。
隣で一緒に観ていたS子さんも、言葉にならない樣子でした。
A君も素晴らしかつたと思います。
それから、今回の企画を主催してくれた
Sちゃん、Mちゃん、そしてKさん家族にも感謝致します。
終演後、テラスに素晴らしいタイ料理とお酒
(チャンビール、ワイン、焼酎等々)が用意されていて
色ゝな方とお話をしました。
居間では最近發賣された「パスカルズ」のライヴ盤
「ハイセンスシューズ」が流れていました。
きつとこのアルバムを聽く度に、
チエンマイの夜を想ひ出すのでせう。
(餘談ですが、表紙に描かれてゐる靴の繪は、
紛れもなく踵の形が、モガ時代の靴であります。
モガ時代の靴を描いて“ハイセンスシューズ”とは嬉しいなア。)
現地在住の美しい家庭婦人らが集まつた所へ
Iさんもいらつしやいまして、何故だか私の生活について
面白くお話して下さいました。皆さんの話の種になつて
少しでもあの時代に興味を持って頂けたら、
非常に喜ばしいことかと思います。
Iさんは何故だか眼光が鋭かったなア!
ライヴが無事に終わつて、Iさんも嬉しさうに見えました。
そんなこんなで、深夜にホテルまで送つて頂きました。
Kさんとも此處でお別れをしました。
(今度お會い出來るのは、日夲ですネ!)
その後も、またIさんの部屋に皆が集まつて
樂しい時間を過ごしました。
今晩が、今囘のチエンマイ旅行の最後の夜だつたので
大變名殘惜しい氣持ちになりました。
★★★★★★★★★二月二十三日(土) チエンマイ出發の朝
荷作りをしてホテルの近くにある郵便局へ行き、
記念切手を買いました。
その後、ホテルのロビーで葉書を書きました。
S子さんが部屋まで來てくれました。
出發時間が近付いたなアと思つた時には、
全員が見送りに來てくれました。
赤テンソウに乘り込んで、見えなくなる迄
皆さんが手を振つてくれました。
私もハンケチ、ではなく山高帽を大きく振つて別れました。
一人になつた途端に 少しだけ涙が出ました。
いつも大正・昭和初期を追い求めて生きて居りますが
あの時代に生まれないで良かつた、と
この時夲當に思いました。
定刻よりもやや遲れて飛行機は臺北に向けて出發しました。
夕刻、桃園國際航空站へ到着。
空港内の安樂椅子が懷かしく感ぢられます。
今晩は近くの桃園へ出やうかと思いましたが、
臺北市内と同じくバスで一時間かかると案内所で云われ、
臺北を勸められたので「臺北車站」までゆきました。約八年半振りです。
雨が振つてゐました。
餘り歩き囘るのも疲れさうなので、適當に見つけた
近代建築のホテルにて一泊することにしました。
宿泊が600元で、休息が300元と有りまして、どう考へても
連れ込み宿と云ふ感ぢでした。
窓の無ひ部屋には色違ひのさんだるが二つ、
枕が二つ竝んで居りました。
雨はやみさうにないので地下街を散策することにしました。
白金懷爐が賣られていました。
世界易經協會、
世界刀療協會、問一件事100元 等ゝの看板の
店には大勢の人で賑わつていました。
民俗樂器による音樂家(主におぢいさん)演奏。
街頭のテレヴイジヨンでは、何故か北島三郎の
「2000年音頭」を店主がノリノリで觀ていて、
何度も繰り返して映像を再生してゐました。
誠に混沌とした世界でありました。
カリー豬排を頂き、タピオカ入り紅茶を
例の太ひストローで飮み、宿へと戻りました。
時計がないので、夜中に何度かフロントへ行つて
時間を確認しては眠るのを繰り返して居りました。
フロントの時計の下では、管理人が毛布を被って眠って
居ました。
★★★★★★★★★★二月二十四日(日)旅の最終日
早朝、ホテルを出て臺北車站近くから
桃園國際航空站行きの乘り合いバスへ。
そして、夕方前には阡葉縣某所の飛行場へ到着。
帰りは、殆ど眠つていたので
信じられぬ位にあつと云う間に到着した感ぢが致しました。
時差もあまりないので樂でした。
それにしても夲當に樂しい旅でした!
今回は行きたくても行けなかった方が多くいらっしゃつたかと
思います。
何か旅の風景が少しでも浮かんで頂けましたら幸いです。
隨分長くなつてしまいましたが、此處まで讀んで頂いて
ありがたうございました。深く感謝致します。
Iさんに云はれて最も嬉しかつたことは、
「“現代のモガ”生活についての夲を書いて欲しいな~!」と云うことです。
何よりも今後の勵みになりました。
これから少しずつ文章を書いて行きたいと思います。
長い旅行記に最後まで目を通して頂きまして、ありがたうございました。
何か感じた點がございましたら、どうぞお書き下さいまし。
御禮申し上げます。
皆ゝ樣御加養のほど願ひ上げます。