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モダンガールと大正末期~昭和初期を ひたすら追ひ掛ける淺井カヨです。
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大正時代まつりにて

連載第10回「週刊モガ」 體驗と肉聲、目をあけること

「週刊モガ」は、お陰樣で第10回目を迎へました。

お會ひする方々から「週刊モガ」を讀んでゐますと云ふ
暖かい御言葉を頂き、大變勵みに成つて居ります。
直接お會ひ出來ない方々からもメエルを頂きまして
非常に嬉しいです。本當に有難うございます。
いづれ本を世に出すことが
私の目標でありまして、
見屆けて下さいましたら幸ひです。

與野の「大正時代まつり」翌日に、
同縣の「萬燈まつり」へと參りました。
廣汎圍に置かれた7種の押印を全て
集めると、30回記念の景品が出ると云ふので
それを探し乍ら、ゆつくりと會場を歩きました。
樣々な出店や催事場がありました。

其の中に「高齢者擬似體驗セット」と云ふ物が有り
一寸試して見る事に致しました。
係員に傳へると 、
「此れを試したいと云つた方は今日初めてです。
是非體驗して下さい。」と、喜んで云ひました。
係員3、4名が何處からか集まり、私の身體に
「高齢者擬似體驗セット」を裝着させました。
手足には重しを附けて、白内障を再現する
黄色の眼鏡を掛けました。視界が狹く、非常に見づらいです。
右足の麻痺と言ふ設定で、右側が特に重くなつてゐます。
更に、背骨を曲げた形で身體を固定しました。
耳栓はありませんでしたが、耳栓をしたらもつと歩き難いだらうなと
思ひます。その格好で、廣場を一周する事に成りました。
ゆつくり歩けば、何とか進めますが
可也の注意が必要でした。
此れが老人か、と思ひ乍ら係員とゆつくり
歩いてゐると子供が息をのんでこちらをぢつと見つめてゐました。

一周した後に、
「高齢者疑似體驗中と云ふ紙を持つてゐなかつたので
何をやつてゐたのかわからなかつたかもしれません。
もう一周しますか。」
と云はれましたが、他の係員が「それは大變です。」
と云ふので、その體驗は其処で終はりました。

昨日は、華やかな洋裝で
「大正時代まつり」に參加し、
今日は、高齢者疑似體驗で、
體中にたくさんの重しを附け、腰を
曲げ乍らゆつくり歩いて別のまつりに參加、、、。
人生とは何が起きるのか
わからず不思議だなアと思ひました。

芝生廣場では、「人間あみだくじ」と書かれた
ビニヰル・テープで作られた巨大なあみだくじが
ありました。其の上を、人が進んで行くのです。
大きな帽子を目深に被つた一人の男が、傍らで
ぢつとして居ました。「人間あみだくじ」は、景品附きで
一回50円。面白さうだな、と思つて横目で見てゐると
男の子らが次々と「人間あみだくじ」を始めてゐました。
ゴールに着くと、帽子の男は男の子に
何かが書かれた白い紙を手渡して居ました。
男の子は、
「50円も拂つたのに、紙切れ一枚なんて、、、。」
と、うなだれ乍ら、其の場を去つて行きました。

それも一つの體驗です。

私には、其の帽子の男が何處から來て
何處へ行くのかわからない、
遠い國の人に見へました、、、。

因に何時間か掛けて周った後に貰つた景品は
抽籤の末、ミニ・カー1個でありました。
若し最初から景品がわかつてゐれば
參加しなかつたでせうが、此れもまた體驗する事に
よつて得られた教訓であります。

樣々な體驗も重要ですが、
私が一つ重要だと思つてゐる事は
「肉聲を聞きに出掛ける。」と云ふことです。

氣に成る講演があれば、直接自分の耳で聞く。
音樂であれば、演奏會へ聴きに行く。
演劇や傳統藝能ならば、公演を観に行く。
非常に當たり前のことですが、此の點には
拘り度いと思つて居ります。

現代は電氣、通信機器の發達により樣々なものを
直接自分の耳で聞かない、と云ふ方面へと
向かつてゐます。
音樂は、直接聽かないで
デジタルプレーヤーで濟ませる。
講演會へは行かないで、
映像の中だけで納得してしまふ。 それも
一つの選擇肢でありますが、直接の經驗、
體驗に勝るものはないと私は考へます。

講演會や演奏會などへは、時間を見つけては
參加して居ります。

講演會や演奏會へ行くには、
時間を作り、交通費をかけて、
わざわざ其の場所へ出掛けなければなりません。
私はなるべく、直に觸れる
經驗すると言ふことを
大切にしたいと日々思つて居ります。

今まで生きてきた中で尤も素晴らしいと思つた
經驗や體驗は、多くが直接の經驗であり
擬似世界のものではありませんでした。

新しい事に挑戰するには、少しの勇氣と時間と
お金も掛かるかもしれませんが
直接の經驗は、其の時に其の場所でしか
體驗が出來ません。後からお金を拂つて、其れを
體驗しようと思つても、2度と出來る事ではなく
何にも變へ難い事ですから、 興味を持つたら
先ずは積極的に體驗すべきです。

電車の中で、携帶電話に夢中に成つてゐる
人を見てゐると、あの小さな液晶畫面に其の人の
全てが吸ひ込まれて、其の人は畫面の中にしか
存在してゐないと思ふ時があります。
携帶電話へ吸ひ込まれた人は
もぬけの殼と成り、現實の存在と云ふよりは
其れ自體が異質な存在に見えます。

腦はサボタージュが好きで、
一度慣れてしまへば餘程のことがない限り、
對象物を再び、ぢつくり見ようとはしません。

然し新しい經驗をする時、知らない
場所で何かの體驗をしてゐる時には
腦が動いてゐる樣に感じます。
たくさんのことを直接見聞きし、
經驗して、幅を廣げて行かなければどんどん
自分だけの殼に入つて仕舞ふでせう。

現代日本で常識だと思つてゐたことも、
海外では覆されたり、新しい價値觀を
見つけたり、日本に就いて改めて考へるきつかけにも成ります。
此れまでに、亞細亞、中近東、阿弗利加、
歐羅巴、濠太剌利、米國などを
訪れ、其の時、其の場所でしか
出來ない樣々な經驗を致しました。

外國旅行に大金が掛かつたとしても
其の經驗は、決して後から買へる物ではありません。
旅にお金を使つても、何も殘らないだとか
旅をするなら、其の分生活物資を豐かにしたい、と云ふ
意見は、人生を非常に詰らないものにするでせう。

旅での出來事が其の後の一生を大きく變へたり、
人が旅によつて大きく變はつた所を何度も
見て來ました。旅のない人生程味氣ないものはありません。
そして旅の出會ひほど素晴らしいものはありません。

普段から知つてゐる方であつても、
旅に出たら其の方が必ず違ふ樣に見えるでせう。

祭り會場で、「高齢者疑似體驗」をしましたが
本當に其の樣に成つたら、あちこちへ出掛けようと思つても
難しくなるでせう。
身體が元氣に動くうちは、積極的に
行動したいと思つてゐます。
私の尊敬するモダンガールは、
常に世界の中の日本に就いて
考へ續けてゐるのです。
樣々な經驗は、自分への投資と言ふことです。

海外まではどうしても行けないと云ふ方は、
隣町でも旅は出來ます。
前回の「週刊モガ」で踏み切りの向かう側へ
出掛けた話を書きましたが、此れも小さな旅の一つです。

普段、何氣なく同じ人間の中で暮らしてゐると
錯覺してゐますが、周りの人間は決して同じ人間のままでは
ありません。全てが變化してゐるのです。

例へば、自分と云ふものを考へてみれば
今の自分と、一年前の自分、十年前の自分は最早
同じ人間では有りません。同じ名前や體型などの
共通項は多くあつても、全く違つた人間であると
私は思ひます。勿論、昔の記憶は持つて居りますが
生まれてから此れまで、全く同じ人間で
何も變はる事なく生きていくなどとても不可能なことです。

其の時、其の場所、出會つた人、出會ふ事物、
食べるもの、讀むもの、聽くもの、見るもの、樣々な
要因で違つた人間に日々變化してゐるのです。

然し人間の性格は餘程のことがない限り
變はりません。何かとてつもない經驗をしたり、
大きな痛みを感じたりしない限りは、、、。
周りの誰かの性格を、變へようと思つても
殆ど出來ないでせう。
性格は變はらずとも、人間は全て變化を續けてゐる
と云ふのが私の考へです。

しなければならない、と考へるのはやめて
したい、と云ふことだけを考へませう。
しなければならないことなど
本當は何一つありません。
毎朝、職場へ行かなければならない、
支度をしなければならない、
電車に乘らなければならない、
と云ふのは嘘です。
其の行動の一つ一つをたくさんの事柄から
選び取つてゐるのは自分自身で
本當にしたくないのなら、全く動けない筈です。
其れでも毎日動いてゐると言ふことは、
其れをしたいと思つてゐるからです。
 
その上で本當にしたいのか、したくないのかを
考へませう。
かう云ふ風にしなければならない、と
云ふことは無いのです。

脅迫觀念を持つて生きてゐると 、
常に追ひ詰められて
極端に言へば、命を落としかねません。
信じられないほどたくさんの方々が
自分を何かに當てはめ樣とし過ぎて
しなければならない、と感じてゐるやうに思へます。

氷菓子(アイス・クリーム)を食べたいと思つたとします。

多くの場合、食べなければならないとは思ひません。
氷菓子を食べる事によつて得られる快感、
また其れによつて引き起こされる樣々な問題を
決して暗くならずに考へます。
何を引き換えにして氷菓子を食べたいのか、
其れとも何かを引き換えにする位ならば、
食べたくないのかを考へます。
氷菓子を食べれば、身體を冷やした舉句、
お腹を壞すかもしれない、甘い氷菓子で
蟲齒に成るかもしれない、夕食が入らなくなるかも
しれない、と色々な事態も考へます。
悲觀的に考へるのではありません。

では、どんな氷菓子でなら
自分にとつて尤も充足感を得られるのか、
コンビニエンス・ストアーで賣られてゐる100円の氷菓子で
滿足出來るのか。それとも高級品が良いのか。
コンビニエンス・ストアーでは何故100円で
年中氷菓子を賣ふ事が出來るのか。
どんな原材料を使つてゐるのか。
其れによつて何が起こつてゐるのかを考へます。
自分が求めてゐるのは、昔乍らの製法で
作られた食品添加物のない手作りの氷菓子なのか、
それとも、外國の氷菓子なのか、
自分で氷菓子を作るのが良いのか、
抑も氷菓子の歴史とは何なのか、
徹底的に考へ調べるのです。
氷菓子が食べたいと思ひ、
其れを其の邊で買つて食べた。

ただ其れだけであれば、
此れほど簡單なことはありません。
其処にある樣樣な問題を多角的に
見て考へていくことによつて
物の見方が無限に廣がります。
つまり、周りの物に目をあけると言ふことです。

目を閉ぢてゐれば、人生は簡單に過ぎて行きます。
日常のあらゆる事に何の疑問もなく
動いてゐれば、尤も操られやすく他人の思ふままに
生きていくことになります。

それは何処かで無理をして合はせて居ますから

徐々に身体を蝕んでいくのかもしれません。

最近、主婦の友附録、昭和十年發行
「お洗濯一切の仕方」と言ふ本を見つけました。
44項に渡つて、洗濯方法がぎつしり書かれてゐます。

洋服、下着、着物の丸洗ひ、洗ひ張り、
ワイシャツ、繦褓、毛物、洋物、背廣、オーヴァー、
帶、帽子、蚊帖、カーテン、ネクタイ等々の
洗ひ方が掲載されて居ます。
時には、職人に任せる事もありますが
基本的には家庭で全ての洗濯が出來るのです。

ハンケチや靴下などは其の日の内に
缺かさず手で洗ひます。
其れは慣れてしまへばそんなに大變なことでは
ありません。
現在は、全自動電氣洗濯機に全て放り込み
突起物を一つ押せば
乾燥までしてしまふ物も珍しくありません。
機械によつては洗ひ分けが出來るのでせうが
本にある樣な細かな洗ひ分けは出來ません。
着物を全自動電氣洗濯機で丸洗ひと
云ふことも決してないでせう。
では、時間が餘つて何をするのでせうか。
もしも、何もしないで電視(テレビジョン)を
見てゐるのなら、すってんころりです。
全自動電氣洗濯機は多くの場合、洗ひ過ぎて居ます。
本來、洗濯と云ふ物は汚れた部分だけを落とす爲に
行ひますが、全て均等に洗つてしまひます。
合成洗劑を洗ひ流す爲に何度もすすぎをしなければならない
と云ふのなら、更にばかげてゐます。
水を使ひ過ぎて居たり、電氣を使ひすぎて居ないか
もう一度考へませう。
晴れた日には、大きな盥と洗濯板で
洗濯をしませう。

モガは全部手洗ひをしてゐると言ひ度い所ですが、
殘念乍ら私も電氣洗濯機を所有して居ります。
以前知人に買つて來て戴いた物なので
盥と平行し乍ら使用してゐるのです。
私の生活には、「電化製品基本法」
と云ふものがありまして、
買つて戴いたものに關しては
其れを所持する、と決めてゐます。
電化製品を新たに贖入すると云ふことは
殆どありません。若しも、電化製品を
買ふ場合は、其の目的の奧に
「大正時代」が深く關係して居なければ認可が
下りないのです。認可と云ふのは、誰の認可かと
云へば、自分に決まつて居ります。
電化製品に関する法は、
我が家では厳しいのです。

私の所持品は多くありません。

本當に必要な大切なものを除いて、
ものは溜め込まない事を原則にして
生活してゐるからです。

一つ一つの物を、先程の氷菓子の樣に
入手して居りますので、
気まぐれで買つたものは殆どありません。
多くの人は何となく溜め込んだ物の中に、
素晴らしいものがあると錯覺しがちですが、
物を整理しないで溜め込めば
かえって自分がやりたい事の
足を引つ張る事に成ります。

私の下宿は小さな一軒家で、
普段過ごしてゐる疉部屋には
コンピューターと机、
ステインド・グラスの電氣スタンド、
衣文掛け、牀の間の掛け軸、
火鉢、眞空管ラヂヲ、蓄音機、
SP盤のレコード棚、柱時計、暖簾、黒電話、脇息、
浮き玉、額などが置かれてゐるだけで、
あとは余り物がありません。
隣の部屋には本棚、机、椅子、箪笥、
蝶の標本等々が有りますが 、
そちらでは殆ど生活をして居りません。

押入れの中には、柳行李に入つた着物、
革鞄、トランク、
扇風機等々が入つてゐるだけで、
臺所は食器棚と炊事用品の他には
氷冷藏庫や土鍋、寿司桶などがあります。
簡素な生活です。

若しも部屋の中に、何となく買つた物が大量に置いてあつたり、
未整理の書類や、物で溢れ却つてゐたら、
私は常に強迫觀念の中で生活する事に成り、
新しい世界に目を向けられず、自分のやりたい事が
ぼやけていただらうなあと思ひます。

物を溜め込んでいけば、忙しいフリが
出來ますから、多くの人は其れで安心してしまふのです。
然し、本當に大切なもの以外ない部屋に
居ると、大切なこと以外出來なくなつて來ます。

細かな整理などをする必要は有りません。
本當に大切なものと、
大切でないのに何となく取つてあるものを見極める
ことです。
自分にとつて大切でないものが、誰かにとつては
本當に大切なものに成るのかもしれません。
本當に大切な物は、其れぞれ異なります。
戰後日本は家庭の物をどんどん増やし、 現在も
多くの家が物で溢れかへつてゐる樣に見えます。

私の寶物は一體何だらうと思ふと、
其れは第一に戴いた手紙の數々です。
心の篭つた手紙を、私は一生大切に
するでせう。
寶物の手紙よりももつと大切なこと、
其れは、人との出會ひです。

若しも、私を何處かで見かけたら
其の時、其の場で聲を掛けて下さい。
よく、あの時に見かけましたが
聲を掛けられなかつた、と云ふことを聞きますが
いつ何時何が起こるのかわかりません。

ひよつとしたら次の機會がないのかもしれません。
普通に會つてゐた日が永遠の別れに
なつてしまつた事も、何度か有ります。

21歳の頃に約11箇月間、百年ほど前に
建てられた大きな洋館に住み込んで
英國の老人施設で働いてゐました。
モガ・モボのお世話をし乍ら生活をしてゐました。

洋館である老婦人と出會ひ、いつもの樣に話をしてゐました。
勤務時間が終はつて大部屋を去らうとすると、老婦人は
何處へ行くの、此方へ來て、と私を引き止めました。
私はまた明日會へるから、と輕く挨拶だけをして
すぐに其の場を立ち去りました。
老婦人は翌朝亡くなり、
二度と話すことが出來ませんでした。
立ち止まつてもう少し一緒に居られたら
良かつたと悔やみました。

元氣に長生きをしたいと思つてゐますが、
それでも、誰の身に何が起こるのかはわからない
ものです。

今週は、體驗の重要さと云ふことを
中心にお話しました。
其れでは、來週まで御機嫌よう。
健康を祈ります。

日本モダンガール協會・淺井カヨ

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自己紹介
HN:
  淺井 カヨ
性別:
女性
自己紹介:
日本の大正末期から
昭和初期の
モダンガールと、
同時代を追ひ掛けてゐます。

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著作権は
淺井カヨに帰属
してゐます。
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無断転載、複写使用を
固く禁じます。
平成20年
3月10日より

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