淺井カヨの 個人ブログです。 ©️KAYO ASAI
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大正モード遊覧會にて

連載第11回「週刊モガ」落し物と今月の愛人料

いかがわしい題名からで失禮致します。

妖艷なモガを目指す「週刊モガ」淺井カヨです。
愛人料とは何ぞや、と云ふことは
最後までお讀み下さればわかるかと存ぢます。

平成20年11月23日に日本大正村での
「大正モード遊覽會」が無事に終了致しました。
 
出演者の控へ室や準備中の方々、
パレエドの光景など繪に成る光景がたくさんありました。
現代に殘る大正的な風景の中、
大正の裝ひをした大勢の人を見られたと云ふことも
私にとつて貴重な經驗に成りました。
12000日目の記念日を生涯忘れないでせう。
 
 さて、寒くなつて參りましたので
我が家の冬の生活に就いてお話しませう。
 
今月から自宅で火鉢や湯丹保などの
使用を始めて居ります。
陶器製の丸火鉢で小さな物ですが暖かです。
前回も認めましたが、古い日本家屋で
隙間風が多いので火鉢が使ひやすいのです。
瓦斯臺で炭熾しから炭を燃やし、
それを火鉢の灰の上に數個乘せます。
 炭の數などで火力調整して
使用して居ります。
火を使ふので注意が必要ですが、
慣れればそんなに大變ではありません。
火箸や五徳も便利です。
今年は中山骨董市で灰ならしも購入出來ました。
 
湯丹保は、陶器製の蒲鉾型の
國策湯丹保を使用して居ります。
これは、大東亞戰爭が始まつて
すぐの頃に作られたものです。
炭興しを使へば、豆炭懐爐や
炭火アイロン(火のし)も使用出來ます。
私の豆炭懐爐は、
廻轉式、初菊煖爐と云ふ物です。
 
ハクキン・カイロは、
昭和初頭の物を所持して居りますが
調整中なのでまだ使用出來て居りません。
然し、近い内に必ず活躍する事でせう。
使ひ捨てカイロの樣にゴミが出ないので、
なかなか優れものです。
電氣式のアイロンも使ひます。
これは、コード部分が布で覆はれた
銀色の胴體を持つ古いアイロンです。
このアイロンは、普通に使ふ分には全く問題が
ありませんが、一等高温にした時に煙が出ましたので
温度を上げ過ぎないやうにして使つて居ります。
 
古い電化製品を使ふのは、
充分にお氣を附け下さいませ。
戰前の扇風機のコンセントから
發火して火事に成る事もあります。
然し、戰前の扇風機は大抵なかなか風格が有りますから
壞れてゐても處分しないで飾つて戴ければ、
立派なオブジェと成ることでせう。
家では、スウヱタアや厚手の綿着物を羽織つて居ります。

電氣冷藏庫がない我が家におきましては
冬はいつでも冷水やコールテーが飮めて、嬉しきものです。
この嬉しさは、電氣冷藏庫が有ればわかるまい、、、。
 
さて、話は變はりまして先日のことです。
 
S鐵道S線の列車内は空いてをり、
私は坐り乍ら夢中で、或る文章を作成してゐました。
 
すると、前方斜め前に坐つてゐた男が、
書店カバアの附いた本をバサリと
斜め横方向に落としたのです。
男は、本をぢつと見てゐて、
本を落としたことに氣が附いてゐました。
私は、一度顏を上げたきりで
また書き物に夢中に成つてゐました。

その後、男がいつ列車を下りたのかさへも
全く記憶になく、列車は終着驛へと到着しました。
降りようと思つて顏を上げると、
本が其のまま床に落ちてゐたのです。
男は拾はずに降りて行つてしまつた樣でした。

私は、書店カバアの附いた謎の本が何なのか
一寸した好奇心もあつて、其の本を拾つてみました。
それは眞新しく、殆ど讀んだ形跡がなく、今年の
5月30日附けのレシートが丸めて挾まれて居りました。

それは、「禪」に關する本でした。
列車での忘れものは必ず
窓口に屆けてゐるのですが、
今囘はわざと男が床に落としたとしか思へず、
其のまま持つて行くことにしました。

近い内に、「禪」に關はる何かがあるのかもしれません、、、。

偶然は偶然でしかないので、どこに線を引くのかは
自分次第です。

S線の話に戻ります。「禪」の本を拾つてしまつた私は
その後、目的地の淺草へと向かひました。
昔の淺草とは隨分變はつたのでせうが、それでも淺草に
來るとわくわくします。
用事を濟ませた後、再度銀坐線に乘りました。
坐席の上には、嘔吐の跡が有り
驛員が5名程集まつて坐席にカバアを掛けてゐました。
とんだ落し物です。
恐らく、氣が變に成つた醉つ拂ひの仕業でせう。

以前、淺草の神谷バーで「電氣ブラン」を飮み過ぎて
歩けない程フラフラに成つた事が有りまして
其れ以降、お酒は飮み過ぎないやうにして居ります。
 
 用事が濟んで、再度S鐵道S線の終列車に乘りました。

私はまたもや書き物に夢中に成つてゐたのですが、
別の男が、坐席からバサリと本を落として降りて行つたでは
ありませんか。
斜め前に坐つてゐた若い女が
私が坐つてゐた坐席の端の、斜め前をぢつと見つめました。

またもや書店カバア附きの本を、行きとは別の男が
落として行つたのです。向かひの若い女の席は、
私が行きの列車で坐つてゐた位置と奇しくも同じで、
本が落とされた斜め前の場所もほぼ同じなのでした。

若い女は、少しだけ落ちてゐる本を見たかと思つたら
すぐに顏を下げて携帶電話の液晶畫面に
吸い込まれるやうに入つてしまいました。

女は次第に眠り始め、周りに坐つてゐる人も
誰もその本に關心がない樣でした。
 
私は、書店カバアの附いた謎の本が今度は何なのかと
またしても氣に成り始めました。
何驛も通過しましたが、誰も本を見ようともしません。
 
結局、好奇心からまた本を拾つてしまいました。
 
本にはこれまたレシートが挾まれてゐて、今度は10月15日附けに
なつて居りました。比較的新しい樣です。またもや
眞新しく、讀んだ形跡が殆どありませんでした。
そして、それは「老い」に就いて書かれた本でした。
 
「禪」と「老い」。一體、此の二つは何を意味してゐるのか。
餘りにも状況が似てゐたので、不思議な出來事でした。
 
また別のお話をしませう。
 
最近は、白粉と頬紅は附けますが
肌への化粧はめつきり少なくなつて居ります。
私の化粧は眉、目、口などを
はつきりと描くので、濃く見えるでせうが
肌に關しては、薄くなつて居ります。
日本人女性の多くは、世界的に見ても化粧が濃い
方が多いのです。肌の化粧よりも、
何に氣を遣つてゐるかと云へば壓倒的に
口に入れる食品に氣を遣つて居ります。
皆さんは、どうでせうか。

私がよく野菜を買ふ八百屋の話です。
八百屋の隅には小さな鳥篭が
置かれています。そこには
黄色い鳥が2羽飼はれてゐて、
ピヰピヰといつも寂しげに啼いてゐます。
お店は何となく陰鬱で、音樂も流れてゐません。
いつも鳥の鳴き聲だけを聞き乍ら、野菜を買ふのです。
寂しい情景ですが、何故だか落ち着きます。
端の机には大抵、おばあちやんが
ぢつと一人で坐つてゐます。
近所から來た卵を買つたり、
珍しい野菜があれば調理法を尋ねます。
兩手がふさがつてゐた時は、
おばあちやんが引き戸を開けて呉れました。
(自動ドアーではありません。←此処重要です。)
野菜は、大きさも形もバラバラで地元で採れた物ばかりです。

大手の明る過ぎるスーパーマーケットへ行くと、
をかしな音樂が流れてゐる事が多く、
氣が狂ひさうに成ります。
閉店間際に流れる、これまた
をかしな音程の「螢の光」を聞くと
ほんたうに氣が滅入ります。
大手ハンバーガーショップの赤い色は、
どうやつても血の色を聯想します。

家で必ず作るのは、ご飯と味噌汁です。
土鍋でご飯を炊くのが何故樂しいかと云へば、
炊き上がる時の香りで、ご飯がどんな状態に成つてゐるのか、
どの位焦げてゐるのか等々、何度も炊いてゐるうちに感覺で
わかるやうに成るからです。

私はマニュアル化されたものが極端に苦手です。
其れは何故なのか?
答は簡單で、自然でなく多くが不自然だからです。
 
機械を使つてご飯を炊けば、一定の作り方で
同じ樣に便利に出來るでせう。しかし自分で炊くと
其の日の氣分や體調、樣々な要因で
方法を變えられるのです。
日常の些細な變化を、樂しんでいきたいと
私は常日頃考へてをります。
かうやつて書いてゐると、現代的なるものを
否定してゐる樣に感じるかもしれませんが
私は、否定したいわけでは一切ありません。

將來一人一人がどうなるかと申しますと、
當たり前の話ですが、確實に死が訪れます。
それは人よりも早いのか遲いのか、
樂なのか、苦しいのか今の段階では
全くわかりません。
しかし、突發的な出來事でない限りは
必ず原因がある筈です。

その自分の死の原因が、何であれば
自分として、許せるかと云ふことを考へるわけです。
さうすると、大切なものの爲になら命を落とすことに成つても
後悔しない、と私には思へます。

若しも、大手ハンバーガーショップのハンバーガーが
人生を賭けられる位に好きな方がゐて、
其れを大量に攝取して何らかの病氣に成つても、
一番其れが求めてゐる生き方だと思ふのなら、
私は其れに對して意見は違へど、何も否定はしません。

しかし、若し其の選び取つたハンバーガーが、單なる惰性で、
他にも代はりがある、又はもつと自分が好きなものを探さないで
適當に選んでゐた上での選擇であれば、
私は其の人生が非常に勿體無いと感じるだけの話です。
 
好きなものは、永遠ではありません。

大切であればあるほどに
其れは時と共に、形を變へて行きます。

人生は一度だけで、
私は生まれ變はりを信じてゐません。
正確に言へば、生まれ變はるかどうかはわからない、
と云ふ風に考へてゐます。
 
自分と云ふ名で、此の時間に存在してゐられるのは
たつた一度きりだと常に考へてゐます。
別の人間に生まれ變はるとしても、
其れは最早元の私ではあり得ません。
 
戰前の事物に觸れてゐると、如何に日本人が眞劍に
本物を求めて生きてゐたのかがわかります。
其の反面、遊び心と自然への畏怖、季節感、その場所
獨自のことがたくさんありました。
眞劍さや眞面目さは、自分から起こしてゐる場合と
周りから起こしてゐる場合では、全く意味合ひが違ひます。
 
かうしなければならないと云ふプレッシャーから來る眞面目さと
かうしたいと云ふプレッシャーを自分にかける所から來る眞面目さ
では全く違ふわけです。
 
それでは本日最後のお話をしませう。
 
近所の古道具屋へ出掛けると、
店主(ヒゲの50代)がニヤリと笑ひ乍ら、
「淺井さん、今月の愛人料いる?」と聞き
手に澤山の札束を持つてこちらへやつて來ました。
 
「え!?」と思つて、見たらそれが何だかすぐにわかつたので、
「あ、それなら欲しいです。」と云つて受け取りました。

店主が持つてゐたのは、十錢や五錢の紙幣の束でした。
「殘りは來月ね。」と云ふことでしたが、其の月は
お店へ行けなかつたので、愛人料だけ貰つてしまひました。
 
現代のお金だつたら、絶對に受け取りません。
 
そして、今月も愛人料を戴いてしまひました。

「淺井さん、暫く來ないから愛人料たまつちやつたよ。」
と店主に元氣良く言はれました。

渡された額は、10錢紙幣が42枚
5錢紙幣が9枚、50錢紙幣が9枚、
合計5圓15錢でありました。
女中さんも月10圓の時代ですから
愛人料としては安いわネ、と云ふわけで、
その古道具屋で買ひ物をして歸りました。
 
今月の愛人料とは、只の冗談好きな店主の話であります。
 
そんなわけで、第11回「週刊モガ」はこれにて
おはりです。
 
其れでは、また次囘お會ひしませう。左樣なら。
 
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